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>壮絶な戦いの相手 やはり"私"なのでしょうか。 あるいは世界(他者)なのでしょうか。
喜びの果てに絶望があり 絶望の果てに喜びがある。 この反復をどこまで耐えれるか にかかってくるのでしょうか。 なんか答えになってませぬが 難しいですね。
【2007/10/02 05:55】
URL | 青原さとし #MMIYU.WA [ 編集]
青原様 コメントありがとうございます。 >この反復をどこまで耐えれるか
本当にそうですね。 辛かったり楽しかったり 繰り返しの生き物なのですね。 んー・・・。
かとう
【2007/10/05 12:21】
URL | かとう #- [ 編集]
この「壮絶な戦いの相手」について私も気になっていたのですが、最近読んだフランクル(「夜と霧」のフランクル)の本によると、この「壮絶な戦いの相手」は青原さんが示唆しているように「私」と「私」の戦いであるようです。ただし、フランクルのいう戦う主体の「私」は精神的な人格として心身からの制約を受けつつも自律している「精神としての私」であるそうです。参考のため以下に引用します。 「その場合、だれが、あるいはなにが精神的な病の経過と対決しているのでしょうか。・・・・ それはまさに、患者の精神的人格にほかなりません。人格が病気と対決するということがあるからこそ、内因性うつ病のために自殺するという人もいれば、また他方では、同じ病気のために自殺を考えても、その考えを振り払う人もいるのです。一方の人が心身の病気の悲嘆に「埋没」し、その悲嘆の内にくずおれるのに対して、他方の人は精神的な人格としていわば外にとどまって、心身的なものに「基づいて」行動するのではなく、病気に反対して行動するのです。・・・自殺をしないと名誉にかけて誓った内因性うつ病の士官が、実際にその誓いを守ったことをE・シュトランスキーは指摘しています。」(フランクル「制約されざる人間」春秋社、2000年)
【2007/10/15 06:17】
URL | ポロちゃん #- [ 編集]
ポロちゃん様
たぶん、誰もが感じている事だと思うのですが 私は時々自分の体と気持ちが、お互い別々の事を考えているみたいに、とてもちぐはぐに感じられます。若気の至りで、お芝居を始めたのも、そんな理由でした。自分の体を使って、ちゃんと自分の気持ちを人に伝える、そんな事をしてみると、バラバラになっていたものが、ぴたっと、くっつくかなぁと・・・。 気持ちの中にも、まるで幾つも人格があるかのようです。 これがとても厄介。 でも、病や死に向かない限り、一人の中にいる複数の自分は、人を懸命にしたり魅力的にしたりする力がきっとある・・・と思いたいです。 フランクル、面白そうです。 読んでみます。
かとう
【2007/10/16 22:37】
URL | かとう #- [ 編集]
かとう様
返信ありがとうございます。 フランクルの話題に関連して思い出したのは、どの本だったか今思い出せないのですが、精神医学者として、「一般公開」に適さない、人間にとって極めて私的なこととして「愛の表現としての性行為、人の死の瞬間、宗教的な祈り」の3つを挙げていました。 「チーズとうじ虫」にはこの3つのいずれかに該当するシーンが「一般公開」されてなかったことに救われる思いがしました。 そのシーンがなくても、コップに水と洗浄剤を入れて最後にポンと入れ歯が投げ込まれるシーンこそが不可欠だったと感じました!
【2007/10/17 04:47】
URL | ポロちゃん #- [ 編集]
ポロちゃん様
こちらこそ、ありがとうございます。 入れ歯のシーンについて言っていただいたのは ポロちゃんが初めてです!
だいぶ昔、奥様との"愛の表現としての性行為"を「一般公開」したいと言っていた全盲の男性とお話した事があります。当時、うぶだった私は、完全に"ドン引き"して すっかり凍り付いてしまいました。 あの不思議な気持ちはなんなのでしょう・・・。
かとう
【2007/10/18 23:14】
URL | かとう #- [ 編集]
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